最近コーヒーが好きで毎日飲んでいる気がする。
気が付くと手にコーヒーがあるくらいコーヒーの虜になっているのだ。いっそ手がコーヒーだったら良いのに、とまで思うようになっている。
というのは冗談だが、毎日コーヒーを飲みながらこのブログを書いていると、「自分はカフェイン依存症なのではないか」と疑いたくなる時がある。
ということで今回はコーヒーを毎日3杯かそれ以上飲む時もある僕のカフェイン依存に対する思いを書いていきたい。同じように共感してくれる方がいてくれたら嬉しく思う。
依存という言葉の本質
「依存」という言葉はあまり好きではない。
良いイメージが沸かないのだ。煙草に依存する、覚醒剤に依存する、と表現されるように依存するとは生活の一部になるという事なのだろう。テレビに出ていた有名人が麻薬に依存していたというニュースを聞くたびに依存症の恐ろしさを感じる毎日だ。
だが依存症というのはどこか遠くにある言葉のように感じながら、意外と身近なところに存在している。その一つがスマホ依存症でありゲーム依存症である。
そして多くの人が気が付かずに発症している依存の一番がコーヒー依存症であると個人的には定義している。
スマホ依存症やゲーム依存症は周りの人から指摘されて気が付くことが多いが、カフェイン依存の場合、誰も指摘してくれる人は居ないからだ。それもそのはず、喫茶店で友達と会話しても双方がコーヒーを飲んでいるなら指摘することはまずできないだろう。
指摘される側も指摘する側もコーヒーを毎日のように飲んでいるため、依存者同士がどんなに集まっても誰も指摘はしない。というよりも指摘できる立場にない、という方があっている。
こう考えるとコーヒーを毎日3杯ほど飲みながら、パソコンの前でカタカタ打ちまくる僕は明らかにカフェイン依存症だと感じてしまう。
カフェイン依存症の本当の定義
だが個人的に僕は「自分がカフェインに依存している」とは思っていない。これにはある一つの根拠がある。この事実を取り上げては自分を納得させて無理やり言い聞かせているのだ。
その事実は、「コーヒー好きがカフェイン依存ではない」という事実。
少し前の話だが、こんなニュースがあった。
九州のとある地域でカフェインの過剰摂取で男性が中毒死した。しかもその男は弱冠の20歳だ。まだ若いのに死に至る、という事でカフェイン依存の怖さを思い知らされた。
だが注目すべきなのは、この男性の過剰摂取はコーヒーが原因ではなかったことだろう。主な原因はカフェインの大量に入ったエネルギードリンクだった。
つまりエネルギードリンクの過剰摂取により、最後は悲惨な結末を迎えてしまったのだ。このニュースを見た僕は、その当時なぜか安心したのを覚えている。
「コーヒー好きがカフェイン依存ではない」という事実を言い聞かせるのに十分な内容だったからだ。大のコーヒー好きでも悲惨な結末を迎えた人の話はほとんど聞いたことがない。しかも今はコーヒーは体に良いとまで言われ始めている。
ならコーヒー好きとカフェイン依存とは関係ないのではないか?と思うのも正常な考え方だ。だが誰もが知っている通り、毎日コーヒーが飲みたくなるのも事実。この「コーヒーを飲みたい」という欲求は間違いなくカフェインに依存している証拠だろう。
何杯まで行くと飲み過ぎなのか
ここまで葛藤があると「カフェインの過剰摂取は危険」、ということよりも「じゃあコーヒーは一日何杯までなら良いか」という疑問のほうが気になってくるのは僕だけだろうか。
これはよく言われる話だが、コーヒーを一日5杯以上飲むと危ない。
ネットで調べるとすぐに出てくるが、大抵は5,6杯以上毎日飲んでいる人はカフェイン依存だという記事をよく目にする。
つまり1日3杯程度なら、尚且つ飲まなくても我慢できる人はカフェイン依存ではない。
コーヒーの質を重視する
そこで僕が考えたのはコーヒーの質を上げること。
仮に一日3杯飲んだとしても、コーヒーの質を上げることが重要なのではないか、と感じるのだ。たとえば、むやみやたらに缶コーヒーを飲むよりも喫茶店に行き美味しい豆で挽いたコーヒーを時間をかけて味わう方が良い気がする。
そうすればコーヒーの過剰摂取も避けれるし、その間にゆったりしたコーヒーライフを楽しめるのではないだろうか。
今回カフェイン依存について考えて改めて自分の思い込みの怖さに気が付けた。
「自分は大丈夫、カフェイン依存になんてならない」と思い込んでいる自分が一番怖い気がした。気が付くと一日5,6杯飲みながらまだ「自分は大丈夫」と言っている自分が数年後にいる気がする。
後になってからでは遅い。
もしかしたら「自分はカフェイン依存じゃない」と思い込んでいることこそが、すでに自分の考え方に依存しているのかもしれない。
おわり。
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